オーロラはフィンランド語で、レヴォントゥレット、『狐火』
今年はオーロラのはずれ年。
幾度も耳にしました。地元の方々からすれば、こんな田舎で、見るものも無く、気の毒に思えて、そう言ってくださるのでしょう。
私にとってはオーロラはここに住む目的ではありません。しかし、どうせなら見たいものです。
「どうせなら・・」いかにも受け身のような言い方をしておきながら、実際には、ほぼ毎日、空具合をチェックし、毎夜のように徘徊することになりました。
日々の習慣、と言うか、努力、と言うか、おかげ様で自分の眼と肌で、見れる日、見れない日の、およその判断が出来るようになりました。この我が人生稀に見る勤勉さを導き出したものは、オーロラの魅力、につきます。
やはり、すごいものは、すごい。
私の展覧会に来てくださった方々は、「今年、オーロラを見られたなんて、ほんとに君は幸運だ。」と言っておられたが、実際は、規模の大・小を問わなければ、ほぼ5日に1回、オーロラは出ていました。みんな知らないだけなのです。
なぜ、地元の人ですら、気づかないのか。
単に、街の光が邪魔で、家の窓からは見えていないだけなのです。
オーロラは冷え込みの強い澄んだ空に出やすいもの。彼らにしてみれば、そんな寒空のもと、わざわざ街の外へまで出かけて見るほど特別なものではないからです。
「今夜オーロラ見に行こうぜ!!」なんて言うラップの人なんて見たことがありません。よほどの物好きでしょう、そんな方は。
コンディションの悪い年でも、少し郊外の暗がりに出れば、あきらかにオーロラを確認出来ます。人里離れた環境に長期住むか、晴れた夜、必ず出かけるかすれば、そのうち誰でも見ることが出来ます。今年、この季節なら、9時~11時あたり、北の方角から、怪しげな光が、ぼーっと現れてきます。
世話になった友人に、「すごいな、おまえ、天才違うか?」と言ってもらったので、「いや、ただ、毎日空のこと、かんがえているから・・」と澄み切った少年の心で言うと、
「そうか、思ったとおりのクレイジーだ!」と笑われてしまいました。
彼等にすれば、夜な夜な冷凍庫よりはるかに寒い、暗い道を徘徊するなんて、「ヘンタイ」としか言いよう無い、かも知れません!!
ラップの人はよく「今日は-35度!さむいさむい!」とか、「今日は-10度、あったかいね!」とか言います。それで、「あの寒空の下、取材に行ったのかっ!? なんと言う忍耐、信じられん!!」みたいな事をすぐ言います。
こっちにしてみれば、-10℃も、-40℃も、おんなじ!!
「すっげえ、さむいんでしょ!?どうせ!!」てなもんです。
どのみち万全の態勢でないと取材は出来ません。
まあ、かなり違うと言えば、ちがうんですが・・
撮影が目的ではないとは言え、最も難しい部類となるオーロラ撮影を可能にするだけの経験と機材は持ち合わせているつもりでした。
この撮影は、およそ3時間ほどのものですが、しかしその間、信じられない凡ミスを犯してしまいました。
オーロラを見慣れてきた私は、およその勘と、データなどを過信する様になりました。そのため、どこか油断が目立つようになっていました。(私生活の乱れ?)
もちろん危険な格好で外に出たりはしませんし、一通りの機材チェックは出来ています。傍から見れば、重装備の準備手順など、じつに手馴れたものに見えることでしょう。しかし、集中しきっていないのが、後で明るみに出てきてしまうのです。
間違いなく、この日のオーロラは、この冬最大のものでした。
予想も的中!いつも通りの時間に出かけると、早くも遠方が青く染まっていました。気温はー25度位、風も無く、すごしやすい条件です。そこで慢心してしまったのだと思います。「いける・・!」と。
しばらくすると一本だった光の帯が、北に二本に増え、東の方角にもうっすらと反応が現れ始めました。
これはつまり、私の頭上へ上がる最も強いオーロラが上る兆候なのです。
私の「師匠」が常々口にする、「Storm! of nothern lights!!」です。頭上の最も高い位置まで上がる、大きな「光の嵐」です。
ゆっくり、ゆっくりオーロラは45度の高さで動き続けました。二時間以上姿を変えて同じ高さにとどまっていました。ナマコやタコのような形に見えたり、帯になったり、そのゆっくりした動きに、すっかり慣れきってしまいました。
すると突然、一部が高く駆け上がったかと思うとギラギラッと揺らめきだしたのです。来たなっ!!と思ったとき、それまで順調だったシャッターが切れません。さっきまで7割は残っていたバッテリーが空に・・両目で空をにらみつけながら新しいバッテリーに交換しましたが、遅すぎました。
それまでと打って変わったスピードで天高く光が走り、光のひだが幾重にもたなびきました。
それは、自然現象の美しさというより、何か動物的なものに感じられました。ちょうど魚類がメスの前でみせる婚姻色のように、身体をくねらせてギラギラと輝きだす瞬間。地味な体色が、いきなり艶かしく発光しだすあの様子。あるいは、獲物を捕らえる直前のトカゲの緊張感みなぎる姿のよう・・。生物に詳しい(コアな)方に(だけ)なら、一番分かりやすい説明になると思います。
時間にして、たった1分かそこら。その間にStormは過ぎ去ってゆきました。
撮影、記録する、と言う意味においては、よりによって、そのたった1分のミスであっけなく逃げてしまいました。これはちょっと、口に出すのも恥ずかしいミスです。
気温が急激に下がってきていても、興奮していると気づきません。バッテリー表示はあてにならないもの。気温が落ち始めれば途端にゼロに。ひとたまりもありません。
このようなミスを避けるために、オーロラ撮影の本職さんは、カメラ2台体制が基本です。私はなんだかそこまでするのもいやなので・・でもって、しっかり失敗しました。
しかし、私は不思議と悔しくは感じませんでした。
毎日いろんなことを考え、様々な美術活動をしてきました。
昼も取材・制作、夜も歩いて歩いて得たこの機会を、肌身でしっかりと体感出来たと納得していたからです。少なくとも、両目も心もはっきりと見開いていました。
長い長い冬を日々過ごしつつ、丸ごと一つの季節を経験する中での取材活動。それはオーロラ撮影の為だけの、短期の旅行とは違います。生意気承知で言うと、なんだか短期のオーロラ撮影旅行、などは「モノをゲットする為の行為」と浅ましく思えるようになりました。「海外旅行でやたらカメラを振り回してしまうのは、”少しでも多く戦利品を持ち帰りたいから”、なのではないか?」自分はそうなってはいないだろうか、ブランド漁りの旅行者と同じになってはいないだろうか、と。
常にそう自問するようになって、心に余裕もでき、そしていつしか、取材はスキだらけに…!!
「一つでも取りそこねたら、マル損でんがな!!」と言うくらいでないとNOミスにはなれないのかも…
私は沼で釣りをするのが好きですから、(例によって急なたとえ話ですが、、)でっかい魚を捕まえることの爽快感は理解できます。
しかし、いるのかいないのか分からなかった魚の影が、ついに目の前に現れ出た瞬間の心の動きは、それを捕らえる喜び以前に、はるかに大きかったりするものです。
「つかむ」過程に、そのために感じてきた様々なものがあり、そのための創意工夫の集積があります。たどり着き、見て、感じた。そのことで、ほぼ満たされていたのです。
あ、また前とおんなじ言い訳をしてる・・・
まあ、またしても、「つかめなかった一瞬」をかみ締めることになりました。
ただ、こうして、自分の撮りためたものを再確認してゆくと、のんきにはしていられません。見たもの、思っていたものが思っていたより記録されていないからです。技術的な問題は仕方ないとしても、せっかくこれだけ多くの驚くべき情景を目の当たりにしておきながら、不注意でしくじると言うのはやはり情けない。
「がんばって撮影したから満足、なんて、アマちゃんやのお!」と言う誰かの声が聞こえてくるようです。
はい、もう一度言わせていただきます。げんきよく。
「おれ、アマですねん、写真。」
冬が終わろうとしています。
この町を離れなければならない時期が近づいてきました。
そのことを考えると寂しくて仕方ありません。
わたしはラップランドを心から好きになりました。
春には内陸の湖水の村へ移ります。