「わび・さびの国」フィンランド
雪解け
北欧において最も感動的な時間でした。
私はこの留学前からずっと、「長い冬を通じて一年を過ごすことに意味がある。」と思い続けてきました。
しかし、実際には長くながく寒い冬の後にこんなに心動かされる光景に出会えるとは、思いもしませんでした。
あっちこっちの京都のお寺を周らなくても、フィンランドの冬の終わりには、”日本の美”が出現します。日本だったら文化財級の景観が、そこらじゅうにごろごろと・・・
わたしたちの現状の生活の中に、自然との結びつきの中で生まれる、和の心はほぼ、無くなってしまいました。
『四季を感じる感性こそが日本人の美意識。』ナントカの一つ覚えのように、そう唱えるくせに、まるで自らの環境を知ろうともしません。「都会の空気の中にも、季節は感じ取れる」なんてかっこいいこと言うだけ。
まるで、外国人が日本に対して持つ、ステレオタイプな概念のように、「わび・さび」なんて言葉は、もはや意味をもちません。「和の心」なんて「ハラキリ、ゲイシャ」と同じように、現実味の無いナンセンスなことばになってしまっていたことに、私はまるで気付いていませんでした。
雪解けのこの時期、周囲のあらゆるところから、天然の「ジャパニーズガーデン」が出現。あまりのショックに言葉を失いました。
彼らは日本人以上に四季の変化を感じ、愛し、日常の平凡な生活の中ですら、常に感性を研ぎ澄ましています。フィンランド人は日本人以上に「和の心」をもっている、そう私は確信せざるを得ませんでした。
あるべき日本人の感性を、独自性を、外国人の生活から教わることになってしまいました。
真っ白い雪面から現れた、苔むした大岩をながめるために作られた窓。そこから日々長く強くなり行く日の光を感じ、何も言わず過ごすフィンランドの友人。家族によって、大切にされた歴史を持つ調度品に囲まれて、まさに文化の中に時を刻みながら生きています。
私は日本のどこにいても、ある違和感を感じ続けてきました。ある程度深い関係になると、全く話があわなくなるのです。自分がかけがえなく思うものを、共感できる人がいないのです。私の絵のコンセプトについても、「甘っちょろいノスタルジー」としかみてもらえません。私たちが失ってはならない固有の環境について描くことが、こんなに痛ましく、生々しい現実を描こうとしていることが。多くの人にとってはただの「エコな人」の個人的こだわりや感傷に過ぎないらしいのです。
でも、彼らといると本当に安らぎます。彼らは本来の意味で、「和の人」だと心底思うのです。私にとっての「当たり前」が、「当たり前」に、言葉も必要無く伝わっているのを感じます。そう、あたりまえの人の暮らしと場所を感じることができるのです。
自分がかつて見てきた日本の美を今実感でき、その意識を共感できる人々が暮らしているのが、なぜか、この遥か離れた外国だったのです。
解け始めた氷の表面。ミニマル。
雪解けは一瞬でやってきます。 草の色にも大げさなくらい感動。
暖がほしけりゃ薪を割れ! 木だけは腐るほどある、がこちらの皆さんの合言葉。
ドでかい薪は、楔とハンマーで割ります。モハメドアリと戦い40歳で現役チャンピオンだったフォアマンも、これでパンチ力を鍛えました!後背筋全壊! いや、全開!!
サウナに続く桟橋。
「湖の氷の上で、クォヴィ(シギの類)の泣き声を聞いたら、それ以上歩を進めるな。」
初春、湖の氷が緩み始めたことを告げる、鳥の声。そこに生きる人の歴史が生んだ自然の知恵。
100年ほど前から殖え続けてきた多肉植物。またんご? 売ったら高いらしい!! (?)
みどり!!!
氷が解け始め、そろそろ魚たちも産卵にやってきます。
うおー!!! 森の沢の雪が緩み始め、うつくしい流れが!!
30年前の郷里の風景を思い出します。
興奮した私の手にはなぜか長い棒切れが。振り回したり、なんだかいろんなものをツンツンしたり、春は忙しいですなあ!!
青々としたミズシダの類、ミズゴケの類が繁茂してしびれるくらいつめたい水の中を揺らいでいます。分厚い雪の下で、もう春を迎える準備ができていたと言うことです。自然と泣けてきます。オジサン最近そういうのに弱くって・・・
弱酸性の軟水。日本と似た生態系。かえるがくるかな?